霊諍山 (れいじょうざん)

 霊諍山における土俗信仰について
 霊諍山ギャラリー(平成28年 元旦)

長野県千曲市八幡の郡地区にある霊諍山(れいじょうざん)には、大変ユニークな石仏が100体以上も鎮座しています。

石仏「猫神」の写真

地元の北川原権兵衛により開かれた霊靜山は、文献によると明治中期から建立が始まり、多くの庶民の信仰を集めたといわれています。

霊諍山の石仏・石神群は、昭和50年代のはじめに浅野井坦氏によって紹介され、全国の石仏愛好家に広く知られるようになりました。修那羅石仏群と似た奇妙な像が多数あり、修那羅山との密接な関係も含めてそのユニークな存在がクローズアップされています。ほとんどが明治時代およびそれ以降に造られたものと思われますが、民衆の自由な発想による造像であり、その信仰形態とともに注目されています。

霊諍山でも修那羅山と同じく猫神が中心的な位置に祀られていて、子育地蔵や鬼、摩利支天、大日如来など共通する石神仏が数多くあります。 一代守り本尊としての石仏や奪衣婆などは霊諍山には見られませんが、全体として形にとらわれない大胆な表現手法は修那羅と大変よく似ています。

霊靜山の由来

霊諍山を開いたのは、この地出身の北川原権兵衛です。彼が書いた「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」によると、明治18年に権兵衛は母の癪の病を信仰の力によって治すために修行の道に入り、 明治24年には「神がかり」ができるようになったということです。その後、権兵衛は次第に村人の尊敬を受けるようになり、人々の願い事を神に取り次ぐことで信者が増えていき、この霊諍山を開いたと記しています。霊諍山本殿には、天神七代、地神五代、人皇三代と大国主命が祀られています。そして石神仏は、信者から願果として寄進されたものです。

青木村と筑北村を結ぶ修那羅(しょなら)峠の奥にあり修那羅石仏群で有名な修那羅山安宮神社とは、同じ大国主命を祀る点や、石造の種類様式等から、修那羅山と霊諍山が似通った信仰形態を持っていた事は明らかです。しかし、修那羅を開いた大天武が亡くなったのは明治5年で、当時まだ権兵衛は7歳の幼児であったことから、権兵衛が大天武に直接師事したとは考え難いです。一方、先の「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」には、「修奈羅様の御情により、云々・・・」とも記されてあるので、権兵衛が大天武に私淑し、信仰形態や思想で大きな影響を受けたものと思われています。また大天武の弟子、和田辰五郎という人物もまた霊諍山に係わっています。

より詳しくは、浅野井坦氏による霊諍山における土俗信仰についてを参照ください。

霊諍山の鳥居の写真 奪衣婆様の写真

霊靜山への行き方

霊諍山は、大雲寺の西側後背地に位置し、千曲市により「大雲寺自然探勝園」として大雲寺と霊諍山を巡る散策道が整備されています。大雲寺側の登り口からなら、霊諍山には20分ほどで登ることができます。

大雲寺は千曲市八幡の郡(こおり)地区にあるお寺で、天正9年(1581)の創建です。春は桜(4月下旬)、夏は蓮の花(7月中旬~8月)、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季を通じてまるで一幅の絵のような素晴らしい景観が楽しめます。


大きな地図で見る